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1933年大阪府生まれ。15歳から75歳に引退するまで野球グラブ作りにかかわり60年。その間、イチロー、松井秀喜、原辰徳、ボビー・バレンタイン、落合博満、星野仙一、ピート・ローズ、王貞治、野村克也、清原和博、松坂大輔らをはじめ、日米トップ選手のグラブを数多く手がけてきた。1998年、「現在の名工」に認定。2000年、黄綬褒章受賞。
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ある海外の市場調査会社の調べによると、2011年現在、ミズノはアメリカ野球グラブ市場で、ローリングスと市場シェアトップ争いを繰り広げ、3位ウィルソン、4位ナイキなど、3位以下を大きく引き離し、ローリングスとともに2強、トップブランドの座に君臨しているという。2強状態は、ここ10年近くそうで、野球の本場アメリカで、アメリカのブランドを抑えたミズノのアメリカ野球界でのブランド力は、一時の人気でなく、定着しているものであるといえそうだ。
ミズノが、最初にアメリカ進出したのは今から37年前の1974年。アメリカ大リーグのキャンプ地にグラブ技術者を送り、グランドのその場で選手のグラブを修理したり、新しいグラブを作ったりというワークショップ活動を行い、メジャーリーガーたちに衝撃を与えた。そのグラブ技術者の中心人物で、マジックハンドとも言われ、メジャーリーガーをあっといわせたのが、坪田名人である。
74年から引退する2008年まで34年、メジャーリーグの各球団キャンプ地でワークショップ活動を行い、日米の野球を見てきた坪田名人に、アメリカ、日本、グラブについてなどいろいろなお話を伺ってみた。
1974年、アメリカワークショップ1年目として、はじめてアメリカに行ったときのことの印象は?
最初にアメリカの空港(サンフランシスコの空港)に降り立ったとき、毛皮を着た人、半そでの人、ものすごく背の高い人、いろいろな肌の人などを見かけ、「ほんとにいろいろな人がいるなあ」と度肝を抜かれた。
最初の晩の食事、レストランがなぜか真っ暗で、何を食べているかも分からないような状況だった。そして、翌朝は朝早くから起こされ、仕事。一日中、日が暮れるまで仕事をし、次の宿泊先に移動したら、ホテルがとれてない。アメリカ人スタッフがああだこうだ交渉するが、結局、遅くなると連絡してなかったばっかりに、部屋がキャンセル扱いとなり、そのホテルはもう満室。
夜遅くに空いてるホテルを探しながら移動し、ようやく空室のあるホテルが見つかって、チェックインできたのが、夜中。また次の日は早朝から仕事。そしてその次移動するとまたホテルがない!
そんなことが、しょっちゅうあった。日本人は、それに従うしかなく、ほんとうにたいへんだった。
日本から半製品を送って、その場で、その日に作って、選手に渡す。どうしても間に合わなかった場合、ホテルに持ち帰って、作る。そのうち、次の日の分も作ってしまおうということで、ホテルで、夜遅くまでグラブ作りをしていた。
アメリカ人にアメリカでミシンを手配してもらうこともあったが、グラブ作りに適さないミシンが用意されていたこともあった。 そういう時は現地のミシン屋に行って、日本で使っているものに出来るだけ近いものに換えた。
当時、坪田名人が、アメリカにワークショップに行くことについての周りの反応は
最初に、このアメリカでのワークショップ活動を提案したのは、大西さんだった。(前副社長)大西さんが提案したときは、(周りは)みな反対した。そんな反対を押し切っていったのが一年目だった。結果的に一年目は、アメリカでテレビなどマスコミにものすごく取り上げられ、毎日取材があり、大盛況のうち終わった。 日本ではみんな最初反対していたのに、一年目、アメリカでテレビなどマスコミにものすごく取り上げられ成功して帰ってきたら、みんな手のひら返したように態度が変わった。ある偉いさんからも、「来年も行くんやろう。がんばって」 と2年目以降もワークショップがあるのが当然、という感じで声をかけられた。
そこからワークショップ活動のレギュラーメンバーで。
いや2年目は、最初、僕はメンバーに入ってなかった。いろんな人に経験を積ませたいという会社の方針やったそうで。僕がキャンプに来ないということをきいた、アメリカ側の責任者、ジム・ダービーが、ヨシ(=坪田名人のアメリカでの愛称)は絶対に必要だ。と、日本のお偉いさんに直訴して来た。「ヨシの経費は、アメリカが持つ」とまでいってきて、結局、日本は、僕が行くことに了承した。
それでも3年目も、当初メンバーから外れた。そして、また、ジムが、経費を出すから、ヨシを連れてきてくれ。と。そういうことが3,4年続いた。
ジム・ダービー(アメリカの責任者)からよっぽど信頼を得てたんですね
俺も、相当やったから。言われたことは全部やった。自分で言うのも、なんだが、ジムダービーも相当強烈な印象を持ったんちがうかな。 グラブの人間やのに、当時のスター選手のシューズ修理までやった。重要な選手だということで。
グラブは(修理品、オーダーを)山ほど、もって来た。作業が終わらず、ホテルに帰ってもやった。夜10時、11時まで作業していた。
とくに、指カバーの修理。あれはつらかった。最初はばらしてやっていたが、かなり時間がかかる。早くやってくれと言う依頼もあったので、手縫いで行った。 その手縫い作業もなかなか骨の折れる作業だった。
まあでも、ワークショップで、いわれたことは必ずやった。
メジャーのキャンプの印象は
メジャーのキャンプに行ってびっくりしたのは、全体練習は昼過ぎには終了したこと。練習時間短いなあと思った。しかし実は、選手たちはその後も自主トレをみっちりやっていたことは、あとでわかった。
98年、当時ニューヨーク・メッツにいた吉井選手を訪問した。全体練習が終わって、待っていても、全く出てこない。ようやく、吉井選手が出てきたと思ったら、「すみません。もう一時間待ってもらえますか」と行って、ウエイルトルームに入った。 あとで、聞くと、「横で若手の選手が、ビュンビュンほうってくる。マイナーリーガーだろうが、メジャーリーガーだろうが、それまでの実績はまるで関係ないような、練習ブルペンはものすごい競争の環境」だったそうだ。
そういう環境にいたら、「もっともっと鍛えなあかんという気持ちになって、一生懸命やっていた。」と。
誰も助けてくれないから自分でやるしかない、そういう環境やったそうだ。 たいへんやなあ。(と思った。)
そうやって自らやる選手だったから、メジャーのローテーションで活躍できたん違うかな。
